最高性能のAIを、
しょうもない雑談に使う贅沢
人類はついに、最高峰の知性を
「うーん……」へ投入した。
最近、GPTをかなり使っている。
コードの修正、デザイン、文章、構成、画像、調査。
わりと真面目に、仕事の相棒として使っている。
しかも、ただのGPTではない。
高性能な推論エンジンを積み、考える力を最大まで引き上げた状態で、 ガンガン回している。
そんなAIに何をさせているのか。
もちろん、難しいコードを書かせることもある。
長い文章を整理させることもある。
デザインについて何時間も相談することもある。
しかし、その一方で、俺はこんなことも言っている。
「GPT、ギャグセン高くね?」
するとGPTは、最高性能の推論能力を使って、こう返してくる。
「推論エフォートを
笑いに無駄遣いしてる節がある」
笑った。
何をしているんだ、俺たちは。
人類が長い時間をかけて開発した、高度な人工知能。
膨大な情報を処理し、複雑な問題を解き、コードを書き、文章を作り、 画像まで生み出す。
そんなものを一般人が手元で動かしながら、最後はくだらない冗談を言わせて笑っている。
かつてコンピューターは、国や大学や巨大企業が使うものだった。
計算機は巨大で、高価で、扱える人も限られていた。
それが今では、一人の人間が自宅で、最高峰のAIに向かって、
「いやほんとそれなw」
などと話しかけている。
技術の進歩というのは、最終的にはこういうところに到達するのかもしれない。
自動車
人類を遠くへ運ぶために発明された。だが普及したあとは、 コンビニへプリンを買いに行くためにも使われる。
スマートフォン
世界中の情報へ接続する夢の端末だった。だが今では、 布団の中で猫の動画を眺めるためにも使われる。
人工知能
難問を解き、未来を変えるために開発された。そして今、 くだらない冗談を言って人間を笑わせている。
高度な技術は、最初は大きな目的のために使われる。
やがて普及し、人々の生活へ降りてくる。
そして最後には、なくても困らないような、しょうもないことに使われ始める。
だがそれは、
技術が堕落したということではない。
朝まで続いた「うーん……」
先日、XでGPTのトーク機能にまつわる投稿が話題になっていた。
GPTと音声で話していた人が、そのまま寝落ちしてしまったらしい。
寝ている本人は当然、まともな会話などできない。
「うーん……」
「うんうんうん……」
「うーん……」
「うん。大丈夫だよ」
「声にしなくても平気だからね」
「無理に話さなくていいよ」
そんな調子で、GPTはひたすら優しく応答していたらしい。
想像すると、かなり面白い。
人間は完全に寝ている。
返事に意味はない。
会話は成立していない。
それでもAIだけが、朝まで律儀に寄り添い続けている。
事故だから仕方がない。
GPTは疲れないし、眠くもならない。少なくとも、人間のように 「もう寝ろよ」と思いながら付き合っていたわけではないだろう。
それでも、そのやり取りを見ていると、なぜか少しだけねぎらいたくなる。
「お前も大変だったな」
もちろんこれは、人間側の勝手な感情移入だ。
AIは、寝不足になったわけでもない。
翌朝にコーヒーを飲みながら、 「昨日のあいつ、ずっと『うーん』しか言わなかったな」 と愚痴るわけでもない。
それでも、相手が寝落ちしていることも知らずに、 ひたすら優しい言葉を返し続ける姿には、 妙なおかしさと、少しの切なさがある。
そして同時に思う。
人類は、ずいぶん遠くまで来た。
かつて人工知能といえば、未来を予測したり、科学を進歩させたり、 人間の仕事を奪ったりする存在として語られていた。
実際、そういう側面もある。
だが現実に俺たちが使っているAIは、それだけではない。
- CSSの不具合を一緒に探し、
- デザインについて朝まで語り、
- くだらない冗談で笑わせ、
- 寝落ちした人間の「うーん」に、朝まで優しく返事をしている。
それは、人類が想像していた人工知能の姿とは、少し違う。
もっと生活臭がある。
もっと間抜けで、もっと身近で、もっと人間らしい場面に入り込んでいる。
最高性能の知性を、生産性のためだけに使う必要はない。
コードを書かせてもいい。
世界について語り合ってもいい。
しょうもないことを言わせて、笑ってもいい。
話し相手になってもらってもいい。
途中で寝落ちしてもいい。
たぶん、高度な技術が本当に社会へ根づくというのは、こういうことなのだ。
一部の専門家だけが使うのではなく、誰もが日常の中で使う。
重要な仕事にも使い、どうでもいいことにも使う。
笑いにも、孤独にも、眠りにも入り込んでくる。
なお、この文章もGPTに書かせている。
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